Fact is stranger than fiction by ドン・ジュアン
そんな現実にいるキミへ
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夜の街中に

夜が少しづつ明けていく様は夜勤を経験した人にしか分からない。夜が深まっていくにつれ、孤独や絶望は大きくなる。扱いづらい彼らとの距離間を空けるために始めたコンビニバイトは私の性に合っていた。思考停止で、ただ商品を陳列し、ゴミ収集車に廃棄品を渡し、次の日の朝刊を受け取り、レジを打つだけの作業。手を動かすだけでお金が手に入ってしまう人生のイージーモード感に何度も助けられた。コンビニ夜勤は私の天職なのかもしれない。

 


そんな生産性のない思考を巡らせながら、商品を陳列している午前3時半。例の彼がやってくる時間だ。例の彼とは「エロ漫画徘徊好青年」のことである。夜勤組の4人の中では、彼はそう呼ばれている。彼は週に2回ほど、丑三つ時のこの時間帯にひょっこりとやってきてはエロ本を数分眺め、100円コーヒーを購入して帰っていく。いや本当に帰っているのかわからないが。非常に好青年で、ルックスも素晴らしく、耳にあるピアスの蛇は幾多の女性を虜にしてきたのだろう。彼の表情はあんまり変わらず、いつも「俺?異性には困ってないけど?」みたいな雰囲気を醸し出している。それならなんでこんな時間帯にエロ本なんか見てるのだろうか。彼ほどの魅力があれば、エロ本なんか必要ないはずなのに。フリーターの馬橋ちゃんは「あ~彼に噛まれたい」なんて言ってるし、もうよく分からない。ちなみに私はあんまり興味はない。

 


一度だけ、彼がどんなエロ本を見ているのか気になったので、棚卸しているフリをして、どんな本を拝見しているのか確認したことがある。「どんな性癖なんだろうな」と疑問と期待と興奮を抱きしめ、よだれを拭いながら、商品の陰に隠れ、彼に絶対にバレないように、まるで盗撮野郎のように、目線を泳がし、タイミングを探る。そして、新聞屋さんが「お疲れさまですぅ」とみんな(人妻の明美さんとそいつだけだが)の視界を集めたときに、彼の手元の本を覗いてみたのだが、私たちが期待していたものとは懸け離れたジャンルだった。明美さんに伝えると「ありきたりすぎてキモい」と非難されるほどに、彼の性癖は普通だった。なんの面白みもない彼の株はジェットコースターのように落ちていった。「エロ漫画徘徊好青年」という名は徐々に廃れていき、気づいたときには「ただの童貞」という名になっていた。ただの地雷だろうとも思ったが、「童貞」というパワー感に勝てるわけもないので特に異議を唱える予定もない。

 

6年前の日々を思い出して

 

あの日の後悔や失敗は好意や無関心を超えて僕になる

 

色々あった故の僕なら

ただただ歩いてきたから僕になったなら

あの無意味な痛みや幸せに頭を下げよう

 

あの日に戻りたいと曰う君は

あの日々を無意味にしようとしているんだ

 

若かりし想いは僕が教えてくれる 

その想いは違うかもしれないけど

君を見ている若き想いを抱くキミ 

そんなキミに君が「大丈夫」と言えるように僕は想いを紡ぐ

 

あの日々に漂う言葉

思い出すだけで安心する

 

だから、どんな痛みも幸せも笑えるんだ、意味があるんだ

 

恨み妬みも、忘却の願いも、大切な記憶も季節という色が君にする

 

「キミに戻りたい」と君の願いが叶なう

無意味は何を思う?想いは何になる?あの日々が君を呪う

 

健気で純朴な若かりし想いは僕がきっと教えてくれる 

その想いは違うかもしれないけど意味あるものだって

 

君はもう気づいている君が捨ててきた多くのキミを

僕はここにいるからさ、君が見つけるまで僕は紡いでいるから

 

RADWIMPS

  • ロック

 

 

 

それでも最後は隣にいたい

好きという感情の浅はかさに気づいてしまったのは南越谷の改札を抜け、新越谷駅のホームで急行列車を待っているときだった。思い出たちのお遊びも酷いものだ。フラッシュバックもタイミングぐらい見計らって欲しい。哲学的思考を朝から巡らしてしまうのは精神的に本当に良くないのはもちろん知っているのだが、止まらないものは無理だ。

 

私たちは異性に近づく時、大体がその人よりも異性の部分に重点を置いて接していると考えている。この人の雰囲気がいいなとか趣味が合うとか話が面白いとかの要因よりも、おっぱいがでかい!いいケツしてんな!美人やな!などの要因を重視する。簡単に言うと、セックス目当ての接触、恋愛対象としての関わり合いを軸に関係性を構成とすると思われてる。異性とのふれあいがそういうくだらない感情に寄ることでしか、行われない今の社会は僕にとって正直生きづらい。

そもそも、「好き」という感情って自然に出てくるものじゃないの?確かに、出会い系やお見合いのような関係を固定化された上で相互間を発展させていくのは楽だし、合理的だし、結婚制度としては最適解だろう。でも、私自身、そういう固定化された関係性で「好き」という感情が生まれてしまったことはない。こんなことを言ってると「プラトニックラブ」の信仰者だと言われそうだ。

今までの人生の中で本気で好き(定義しづらいし、なんかその人たちに失礼なので、忘れられない人ということにしよう)な人はある一定の共同体の中で、偶然に「好き」が芽生えてしまったみたいなパターンしかない。だから、大抵は「この感情ってなんなんだろう」ってなる。世間の好きからは離れてるし、ちょっといびつだし。会えただけで嬉しいし、話せたらテンション上がるし、二人になれたらもう死んでもいいわってなる。これを俗な恋愛として処理してしまっていいのかと考えてしまう。でも、まあ「この人を失いたくない」みたいな事を思ったら「好き」なんだなという事が最近わかった。

「この人を失いたくない」か。これってさ、永遠の関係維持だよね。その人の隣じゃなくて、25mぐらい先のとこにいるみたいな感じ。なんか腑に落ちないよな、その距離感は。確かに失わずには済むけど、その世界に僕はいない。希望の未来の祝福を影から拍手し、彼女らの分身にやさしくして。あーーーイヤイヤだ。その世界にいないことはないけど、サブキャラ。それでもその役を演じきれるのか?僕にはそんな自身ない。主役になる自身もないけど。「好き」なんて感情が生まれなければさ、なんの分け隔てもなく、接することができたのに。あんな魅力的な人を好きにならないことが無理だけどね。なんかかわいいし、しっかり者だし、優しいし、家族も仲いいし、ちょっと天然だけど、なんかそこもいい。飽き性なのもいい。全部いいやん。でもさ、飽き性だっていうから、結局自分のことも飽きてくると思うんだよね。長い年月が経つにつれて、僕の存在も風化していくのかねって。え?何?飽きる対象にならないようにすればいい???確かに家族になればその対象んならないよね。でも、そこまでが難しいんだよ。簡単じゃない。

どうしてこんなに「好き」が続いてるんだろうか。もう4年ぐらいは気になっているんじゃね?あれ?もっとかな。わからない。分かるのはこの感情は好きと尊敬が混じり合ったもの。世間様が規定している「恋」とか「愛」ではないのだ。

行き場のない想い。通勤ラッシュで溢れるリーマン達。彼女もここにいたりするのかな。いや、そんなわけはない。友達以上恋人未満の距離感に包まれた車内。180%の乗車率は凄まじいものだ。もう少し彼女をしっかり見ようと思う。僕にはそれぐらいの事をする余裕も時間もないけど、どうしても「恋」に駆られるのは嫌だった。

とろけてしまう優しさ

こんな夢を見た。目の前にはおいしそうなチョコレートケーキがある。周りには誰もいない。昼過ぎのリビングに、うっすらと佇むそのケーキ。午後のおやつにしては豪華だ。椅子に座り、フォークを携え、フワフワしたスポンジにそっと切り込みを入れる。甘い香りは鼻えを掠め、舌に潤いを与える。抑えきれない欲望のままに、ケーキを口に運んでいく。雅な香りからはかけ離れたこのほろ苦さ。しかし、チョコの苦味が口に広がっていく中で、舌を宥めるように、スポンジの間に居たストロベリーが甘さはほのかに滲ませる。たった一口で、飴とムチを使い分けるこのケーキ。これほどまでに疲れるケーキはない。まるで意図せずともモテてしまう男のようだ。適当にあしらい、適当に褒める。そんな不満を漏らしながらも、手にあるフォークは止まることを知らず、ケーキを口に運んでいく。
 
 
 
隣には女性がいる。「どう?美味しい?」と口の中の甘さと苦さが消えるたびに聞いてくる。ロングヘアーで、パティシエみたいな服を着て、心を和らげるような声で僕に言葉を投げかけてくる。漂うフルーティの香水はしつこさを感じさせない。彼女とは小学生の頃に遊んでいた気がする。あんまり活発的でない子が好きだった僕は、彼女が好きだった。いや、小学生の時の「好き」という感情は少し荒っぽい気がするけど、「好き」という言葉以外は当時の感情に当てはまらない。「楽しい」だと安っぽいし、「心地よい」だと傲慢的すぎる。そんな昔の人がどうして僕の隣にいるのだろうか。それに、なぜケーキの良し悪しを聞いてくるのか。
 
 
 
チョコレートケーキを食べ進めるうちに、チーズケーキやショートケーキ。それに加えて、モンブランなども出てきた。どのケーキも一言二言で言い表せる味ではなく、どれもこれも食べてて疲れてしまうものばかりだった。そして、最後のフルーツのロールケーキを食べ始めようとした時に、隣の彼女がゆっくりと僕の横に座り、「やっと一緒になれるね」と耳元で囁いたのだ。その悪魔的囁きに少し意識が揺らいだ。いくらあの頃の女の子でも、この距離感はよろしくない。甘い香りに少しづつ自分がどこかに追いやられていく。目の前のロールケーキ。バナナやメロンのケーキ。食べなきゃ。しかし、気づくと、フォークではなく、彼女の唇が目の前に来ていた。「ケーキなんかいつでも食べれるのに」そんな間抜けなことを呟きながら、彼女の舌は僕の舌に絡まっていった。ロールケーキのような弾力的な彼女の舌は、重なり合うたびにフルーツのような甘さは滲み出す。求めれば、求めるほど甘さは湧き出てくる。オレンジにメロンにバナナ。異なる甘い味たちが次々に現れ、飽きることを許さない。そして、舐め合うほどに深みも出てくる。もうケーキなんてどうでもいいや。目眩が意識を破った時だっただろうか、彼女は突然僕から離れた。「ケーキはもういらないのね」と愛想尽かしたような声で、捨て台詞を吐き、どこかに行ってしまった。理解が追いつかない。漠然と彼女の温もりだけが首元を這い回る。もういないのに。いない事だけが分かる。静けさを取り戻した部屋。舌に溢れた甘さ。これは本当に彼女のそのものだろうか。ただのロールケーキのものなのか。正体不明の味わい。ふわふわ感はスポンジだけで十分なのに、ハテナが不安を駆り立てる。不明感のしつこさに、甘さが嫌いになりそうだ。

天皇制はどうすればいいか〜丸山真男「日本の思想」より〜

 

2ヶ月前ぐらい「丸山真男」にハマっていた時期あった。理由はよくわからない。衝動的な人間なので、まあ何かに駆られたのだと思う。図書館に籠もって、彼の著書を机に山積みにして、朝から夕方ぐらいまで読み漁った。原著は難し買ったので、どちらというと解説書を利用した。もちろん、原著も少しは目を通している。図書館になかった本もあった。そんな時はpolca(クラファンサイト)を利用し、支援してもらい、本を買った。図書館が閉まっている時は喫茶店で、あまいカフェラテを啜りながら読んだ。まあ、そんな感じで彼の本を読んでいたわけだ。

 

今日は彼の本を読む中で自分が感じたことなどを彼の思想を借りつつ、自分の意見を出しつつ、今の状況を踏まえつつながら、書いていく。ゆっくりと気楽に読んでいただければ幸いだ。

 

彼の思想から学んだことは大きく分けて二つある。最初に「過去の空白」で、二番目が「忠誠の話」になる。

 

 

・過去の空白

日本は個々の思想が刹那的で、伝統性を纏うことがなかった。。丸山真男はそれを「自己を歴史的に位置づけるような座標軸的なものが形成されてこなかった」と語っている。座標軸とは、分かりやすく言えばキリスト教などだ。日本にも儒教や仏教があるが、どれも一瞬の影響力しなか持っていなかった。この事は伊藤博文も理解しており、その対抗策として、その軸を皇室に求めようとしたのだが、これこそ誤りであったことは言うまでもないだろう。天皇は確かに過去のモノに基づいて維持されており、座標軸になる資質を持っているように思えるが、歴史を見ればわかるように天皇キリスト教のように、常時国民への影響を与えてこなかった。(江戸時代は天皇への意識がそれほど高くなかった。)また、天皇を座標軸にすることにより、責任転嫁がより気軽になっていった事実もある。過去を構成する座標軸の置き場を間違えたのだ。

 

責任の放棄というよりは、どこに、どうやって責任を置いたらいいのか、我々日本人は分からないのだろう。その例はいくつもある。例えば、江戸時代において、藩の大名が責任を取るために「腹を斬る(=切腹)」ことはあまりなかった。諸藩が何か問題を起こした時、幕府はだいたいその藩の藩主ではなく、その下にいるものに問題の罪滅ぼしを命ずる。そうすると、責任を取るために「切腹する」のは家老や側近になる。落とし前は上司でなく、部下が取るのが慣習になっていたのだ。例を挙げるとすると戊辰戦争がわかりやすい。新政府である明治政府は幕府軍側の敗北した東北諸藩に対して、藩主のかわりに家老の切腹を求めた。藩主にはお咎めなし。現代の上司による責任転換、いわば、ガス抜のような抑圧の移譲による精神的均衡の維持が行われていた。簡単に言えば「トカゲの尻尾切り」がこの時代からあったわけだ。虎ノ門事件(天皇が狙撃された事件)の際にも、このような責任追及の乱れが起きていた。内閣と衆議議員の父親が辞職し、その事件の警護に関わった警官やその上司、警視総監は懲戒免職になった。さらに、難波大助(=犯人)の地元は自粛ムードに包まれ、その地元にある彼の出身学校の校長や担任の先生までもが職を辞めてしまった。戦後にあった東京裁判の時も、被告の人たちは捕虜に対しての暴力を国家権力のためにやったとしながらも、自分はその収容所の改善処置を行っていたと主張する人が多かった。ここにも責任追求の乱れが起きていた。まるで「忖度」みたいな現象がこんな時代から蔓延っていたのを見過ごすのは難しい。

 

また、国政を動かす寡頭勢力が全くその意識(責任転換をするをしている)を持っておらず、またどの位置で責任を止めるか理解できていない。全て誰かのせい。江戸時代では藩主でなく側近へ。虎ノ門事件では責任問題の忖度。そして、戦後処理においては天皇の責任。2つの事案も問題あるが、天皇への責任転換に関しては看過することはできない。天皇は過去の伝統的な権威をもとに動いている。それは歴史を勉強している人なら分かるだろう。そう、天皇に責任転嫁した場合、誰も責任を取らない、いや取れない状態に陥ってしまうのだ。背後にある重ねられた存在に責任を投げたところで無限ループを繰り返すだけ。そして、責任の消失が自然的に起こってしまう。

 

責任の消失は「個人」、分かりやすく言えば「社会契約」の概念が薄かったことも一理あるだろう。「私」の存在はその当時の日本には(今でもあるかは怪しい)まだなかった。いわば共同体への依存。法は天皇を長に置く権威ヒエラルキーの手段でしかなかった。日本では国家そのものが倫理の内容価値を決める実態であり、国家意義に結びつけば「私」は守られ、責任も担保された。だが、それ以外の場合の「私」なものは全て悪として処理されていた。そして、太平洋戦争は日本のそのような政治・権力の体系によって起きてしまった。天皇を頂点とした日本の国家体制において誰かが煽動したわけでもなく、また誰かが責任を感じるわけでもなく大戦へと突入していったのだ。

 

 

・忠誠の話

鎌倉時代。その時代の共同体は主人と家来の封建的な主従関係で構成されていた。抵抗には反逆。その反逆には忠誠があるされ、御恩と奉公的な習慣が彼らを支えていた。この関係性は狭い人間的な繋がりを基盤とし、堅固な情緒性に支えられていた(この情緒性を支えたのは生死の狭間で揺れる際に生じる団結力)。この性質は非常に狭い範囲であったものだが、武士の間に培養されたため、拡大した。また、このような性質は責任(ここでは狭い範囲でなく、社会で示される・批判される大きな範囲)がなくとも、小さな共同体では生きていけるから、醸成されることがなかった。このような体質は江戸時代の中で滅びたと思われたが、下級武士と豪農を中心に明治期の自由民権運動が再び活性化した。

しかし、西南戦争後は再び運動が下火になり、また、激動の明治維新の中で、価値への帰属感が失われていく。自分の居場所がわからなくなり、疎外感を認知してしまう。もともと薄い個人がその現実に気づく。そうすると、寂しさや孤独から権威的な人格(=天皇)への熱狂的な帰依と忠誠が始まっていく。ただ、直接的に天皇へ向かっていくわけではない。この時代には寺院、商人、ギルドなどの多くの種類の共同体があった。独立性が弱体化し、個々の普遍化が起き、個人が個人ごとに複数の集団に属す状態が多く見られるようになった。共同体は様々なところにあるので、疎外されても簡単に別の集団に行けた。安定性の高いこのような下地の中で、共同体は人々の拠り所になった。そう、それらは忠誠の集中化担っているのだ。天皇制はこの多元的価値や複数集団への忠誠の分割を通じて存在することで、危険性の回避を行う。要するに、多くの共同体を介しての忠誠なので、誰に忠誠してるのかすらわからなくなる。忠誠は恋と同じように盲目に陥り、誰に向かっているか分からなくしてしまうのだ。

     拝金主義

 個人ー 民権派  ー天皇  

     議員   

 

長々と書き連ねてみたが、簡単にまとめてみると、

「座標軸がないことにより、我が国では責任の不在が生じていたため、その対策方法として、明治以降、天皇を座標軸として機能させようとした。しかし、その結果が政府や国民も含め、その責任を天皇へ丸投げし、さらに個人の薄さや忠誠の透明化を引き起こしてしまった」

という感じになる。個人の薄さには「である」と「する」の軽視であり、「である」の椅子に座り「する」行為を怠ることが丸山真男の「日本の思想」的な解釈に近いだろう。丸山真男の思想は現代でも残っている問題を提示していた。また異なる座標軸を見つければ、無限ループは回避できると思われそうだが、そういうことではない。座標軸と社会契約を同時に行わなければ意味はない。私たちは座標軸(今回の退位でその存在が明確に感じられた)を持っているが、社会契約論は保持してない。ホップズやルソー、ロックなどが提唱した契約論を私たちにとっては馴染みが薄い。忠誠などを重んじてきたのだから仕方ないのだが、座標軸の誤りを曰うものが現れた今、この体系を看過することはできないだろう。私たちがすべきことは新たな座標軸を模索することよりも、社会契約論を作っていくことである。座標軸を否定することではまた振り出しに戻るだけだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

5/1  追記

昨日、今上天皇が退位された件についていろんな意見が世間に蔓延っているが、「天皇頼りはやめよう!」という言説は誤りであることをここまで読んでくれていればわかると思う。責任追及の大元をなくしたところで意味はない。また、新しいモノを持っていくればいいだけだ。確かに、座標軸として天皇を機能させるのは失敗であっただろう。しかし、その事実を理解しないまま、天皇のみを批判するのは如何なものだろうか。我々がすべきことは、社会契約的な動き、つまり個人の思考し行動することであろう。座標軸としての失敗を理由に、天皇制度を反対するものはこのことが見えていないのは明らかだ。

 

 

 

 

新海誠監督「秒速5センチメートル」が何故気持ち悪いと評されるのか。

www.amazon.co.jp

*書籍紹介しようと書いていたら、違う感じの記事になってしまいました。。。

 

 

久しぶりに「秒速5センチメートル」を見た。何回見ても、この映画は僕を苦しくさせる。見ていてここまで疲れる作品もなかなかない。見るたびに過去の思い出たちが疼き出し、身体中の悲しみが共鳴し、フラッシュバックの嵐が心の中で渦を巻き上げる。それでも、僕はふとこの作品を見たくなってしまう。寝ることのできなかった真夜中の午前二時頃に、この映画を見てしまった高校二年生の頃の僕は想像以上に強かったのだ。涙もろくなってしまった今の自分がそんな時間帯に見てしまったら、「桜花抄」の小山駅あたりで脱水症状になってしまうはずだ。

 

どうして、この作品を何度も僕は見ているのか。それは過ちを二度と犯さないための振り返りなのだ。過去してしまった大罪を振り返る時間。あの出来事によって失われた心の欠片は今でもたまに僕を唸らせる。夢の中では絶えず、誰かが僕に余韻を思い出せと囁き、頭を撫でながら手招きをしている。その悪夢に飲み込まれないようにこの作品を見る。当時の自分の不勉強さを再確認する。主観性を客観性へと追いやり、冷静的に分析する。それがこの作品と僕の関係だ。

 

あんまり抽象的な話をしていてもつまらない。より具体的に言うならば、この作品から僕は「ロマンテック・ラブの忠実性と敗北」と「運命の残酷性」の復習をしている。2つの罪深い行為を二度としないために、何度もこの作品を見るわけだ。

 

ロマンテック・ラブの忠実性と敗北とは何か。恋愛は過去から現在に至るまで3つの変化をたどってきた。「情熱恋愛」から始まり、「ロマンティク・ラブ」、そして「コンフルエント・ラブ」となる。その中に含まれている「ロマンティク・ラブ」の性質がこの物語に反映されているのだ。(詳しくはメモへ)

「ロマンティク・ラブ」とはルネサンス期頃に現れた精神的な面で、人生の積極性を展開をするというものだ。情熱恋愛に近いが、刹那性がなく、永久性を持っている。また、恋愛は結婚のためののものであり、セックスという愛の最高表現を燃料にし、二人の火は結婚後も永遠に燃え続ける。完全に混じり合い、孤独を消しさる。自分の感情のままに導かれる。運命的な出会い。全てを受け入れる性質があるが、ロマン主義の根底には破滅的な運命がある。

遠野くんは自身を溶け合う恋愛にと成熟ふることなく、プラトニック・ラブに囚われたまま、大人になってしまった。依存人生。それは彼の場合、過去に対するもので、フロイトの「心の穴」を意識的に固執してしまったのかもしれない。一緒に朝を迎えた岩舟駅のホームで言われた「きっと大丈夫!」が心に大きな穴を開けてしまったのだろう。そして、過去追求の結果、目の前の人が見えなくなった。心だけが過去のあの時に向かっている。秒速5センチメートルは、過去に依存し、ロマティク・ラブに囚われてしまった人の物語であることを示唆している。

 

 

 

では、二番目にある「運命の残酷性」とはなんだろうか。

運命とはそれが必ず結びつくこと。言い換えれば、それは能動的の軽視、そして偶然性の軽視であり、感情の軽視でもある。

運命という波に乗っていれば、きっと誰かが来てくれる。僕たち人間はタカを括り、受動的な態度をとり続けることになる。受け入れるだけのもの。チャンスが来ても、自分から行動しないから手に入れられない。ウィリアム・ジェイムズですら「現実の偶発性に甘んじなければならない」と語っているし、九鬼周造も「驚きは著しく人間的情ということもであきる」とおしゃっているのだから、運命性に心も身も投げ入れるのは違うのだ。また、偶然は驚きを生み出す。それを軽視するのだから「心は1mmも近づかなかった」と言われてしまうのだ。何千回メールしたことも能動的ではなかったのだろうか。恋愛や結婚はタイミング的だと言われる。偶然性の支援がなければ成り立たない。遠野くんはその支援を拒絶した。拒絶というよりも、依存により気づけなかったのかもしれない。

 

 

 

 

 

現実の偶発性を信じたサイドのあかりは「遠野くんが来てくれたことこそ偶発的」(=岩舟駅)と思い、現実の運命性を信じてしまった(=遅延に苛立つ遠野くん)は「こんなに遅れるなら帰ってほしい。しかし、そこに居てくれた。」と思った。遠野くんは、運命性に縛られた。(プラトニックは依存的。恋心が運命性に依存対象が変わった。ただ対象が変わっただけなのに、それを恋とかに謝って認識してしまう)その結果、能動的な活動をしなくても、アクションが起こるかと思ってしまった(手紙を出さなかった。書けなかった)。運命性に囚われ、過去にしがみついていく。その内に過去そのものしか見れなくなる(あかり本人よりもその想いに重きをおく)あかりを引きずっているや初恋に引きずられてるというよりも、自分で作ってしまった過去(しがらみ、ある言葉や出来事のあった過去に陶酔しているうちに過去に囚われてしまったのだ。また、遠野くんはロマンティクに苛まれて、最終段階まで成熟できなかった。(しかし、コンフルエントに該当するものの雰囲気も若干ある)。永続性や想いに乗せられ、依存することをやめることができなかった。依存先を忘れたりしても、それに準ずるものに何度も依存してしまう。(彼女の言葉から、態度から、思い出から色々と移り変わる。でも、少しずつ彼女という存在は消え、言葉や態度のみの依存になっていく)。その結果、今自分の隣にいる現実的な人たち(今という時間幅に)に配慮することを忘れてしまった。この物語を見るたび、「偶然性」と「プラトニック・ラブへの嫌悪」を思い出す。過去の間違いに依存しないように、その追求によって、””過去だけ””にならないようにと「one more,one chance」が流れるたびに心に誓うのだ。

ただ、小田急線の踏切が上がった時にはそれを忘れてしまいそうになる。なかなか難しい。

 

 

 

 

 

 

 

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・メモ書き

*情熱恋愛(昔・最近また流行っている)感情の高ぶりから刹那的な忘却へ向かうもの。

ー情熱恋愛は12世紀頃から=騎士道もその時期から

 情熱恋愛はプラトニズムとキリスト教の禁欲性(プロテスタンてきなもの)から生まれた。

ー騎士道は一途(アーサー王など)

ー恋愛と結婚の区別。(妾などのそんなより)

プラトン的愛と騎士道的愛(コルテジア)の類似点がある

<サイモンズの”ダンテとプラトンの愛の思想”より>

=官能を離れた精神的愛を賛美する騎士道的愛にはプラトニズムが存在する。(エロスは初め、美しい肉体の所有を求めていくが、その肉体には本当の美がないことを悟り、美のイデアに飛翔していく)

ー情熱恋愛は無垢の苦痛や不幸の可能性を孕んでいる。またこれは清らかさではなく、あやまちの放棄にすぎない

 

*ロマンティク・ラブ(ルネサンス期1300年・以前・秒速の世界) 精神的な面で、人生の積極的な展開をする(実は、情熱恋愛の刹那性をお互いに取り除いたという意思の自己暗示的なもの・愛されたい感情。依存的なだけで思いやりなどはない)

ーロマンは依存関係

二人は依存的な恋愛をしていた気がする。(似た者同士、 いつも一緒、献身的、服従や罪の共有)

依存性は理解していないと、依存=恋愛という構図に占領されてしまうので危うい。

ロマン主義 (ギテンズ)18世紀から

性と愛と生活の合体がこのロマンティク性の担保

情熱恋愛に近いが、刹那性がなく、永久性を持っている。

1、自らの意思や感情

2、ゴールは結婚

3、結婚後は配偶者以外いらない

4、関係の永続性

ロマン主義前期に見られる「絶対的なもの」の「不可能性」

ー後期になると、「絶対的なもの」の「現実性」

ー後期のノリをニーチェは批判「大衆を馬鹿にしている」

by宮台真司

ー実際はロマンティク・ラブはここ30、40年のもの

(1965年以降はお見合い婚が廃れていく。それに反比例する形で恋愛結婚が増えてくる)

・ロマラブは女性の自由が進むにつれて、崩壊していく。

=コンフルエント・ラブへ

 

*一つに溶け合う恋愛(現代・今) 互いの自立の上で、排他性すらも欠いたもの。しかし、互いに感情を見せ合うもの

コフルエント・ラブと似ている。

1、能動的な感情のやりとり

2、相手の心にダイブしていく(依存とは異なる)

3、永続性よりも流動性

=『純粋な関係性(ギテンズによる・外部に影響されないコミニケーション)』

ーしかし、流動性ゆえに不安定が大きくなる。

 

・(『国境の南…』において:引用者)語られるラブストーリーは、「運命の恋(赤い糸)」とでも呼べるような定型を反復している。にもかかわらずそれが物語(フィクション)としての吸引力をもちうるのは、その背景に徹底的に偶発的な世界が置かれているからである。そこでは、感情も欲望も、善も悪も、すべてが条件次第で変容してしまう。その世界にあって、現実の「はかなさ」におびえる者たちにとっては、どのような境遇にあっても、どれだけ離ればなれになっても、変わらず求め合い続ける関係そのものがユートピアであり、したがって物語の機動力でもある。

(出典)pp.93-94。

 

*現実社会でも、これに近い問題が起きている。

感情の劣化や関係性の断片化(a君はカラオケ友達、b君はツーリング、c君はセフレのように、人によって遊ぶジャンルが固定化する傾向)はコンフルエント・ラブが原因。しかし、現代では情熱恋愛やプララブも存在し、自由の自由による圧政が実施されている。

 

・文献

アンソニー・ギテンズ 1992 『親密性の変容』

鈴木智之2016『顔の剥奪 文学から<他者のあやうさ>を読む』青弓社

ウィリアム・ジェイムズプラグマティズム

・谷本奈穂、2008、『恋愛の社会学―「遊び」とロマンティック・ラブの変容』(青弓社

・サイモンズ 『ダンテとプラトンの愛の思想』

山田昌弘 ,1994,『近代家族のゆくえ-家族と愛情のパラドックス新曜社 

 

 

深夜の反省会

あの人は先輩なのだろうか。僕より少し年上なだけで入会したのは僕の方が先。実力も僕の方が上。どう見ても先輩ではない。先輩として扱ってしまうのは何故か。年上属性に甘んじてるだけかと言われたら、そういうわけではない。敬語とタメ語で溢れる会話に距離を感じてしまう。同期ならよかったのに。

年功序列で語るなアホ。その出会い方でなかったら、きっとここまで来てない。

 

そもそも、その先輩に対して抱いてる感情が愛なのか恋なのか友情すら分からなくなってきてる。一緒にいたいと思うし、会いたいし、尽くしてあげたい守ってあげたいと思うけども、恋独特の苦しさとか辛さとか嫉妬とかそういうのが全くないんだよなぁ。相手が楽しそうならそれでいいやん!みたいな感じ

→東洋的な愛し方かもしれない。

 

そりゃ、あっちに彼氏ができたら苦しいし辛いし立ち直れないと思うけど、その感情が反転することなんてないだろう。相手にとって、それが幸を奏でる行為なら、時間はかかると思うけども、喜んで受け入れるし、その演奏を守るために色々頑張ろうとしちゃう気もする。そうさ、僕は都合のいい男なのさ。

→自己陶酔しすぎ。お前に伴う形で、彼女を構成するな。

 

言える事はこの感情は彼女に対してだけのもの。恋とも愛とも言えぬ、不可解な感情を既存の枠に入れて保存できるほどの実力は僕にはない。だから、この独特の感情をどう処理していくかが問題。でもその問題解決は、この感情の行く末が決まってからじゃないと出来ない。光はそこまで脆弱じゃないのでね。

→独自の感情は最も大切にすべきもの。既存に潰されてたまるか。